私の名前はメアリー。
もちろん本名じゃない。
Esperanzaで働くことになった時にソルがこの名前をくれた。
ここではお互いを本名ではなくカクテルにちなんだ源氏名で呼び合う。
Sol Cubanoのソル。Prelude Fizzのフィズ。そして私はBloody Maryのメアリー。
昼の仕事では考えられない事だが、毎日一緒に働いているのに私達はお互いに本名を知らない。
笑ってしまうけれど、オーナーであるジンさんでさえ私の本名を知らないのだ。聞かれもしなかった。
雇用とかの法律関係はどうなっているんだろうとも思うが、きっとそこは私にはよくわからないパンドラの箱なのだろう。
17で家出をして、初めは風俗で働いた。
飢えた男のオモチャになる事は本意ではなかったし、実際気持ちが悪い客ばかりだったが、家を借りられない未成年の私にとって寮があることは絶対条件だったし、なにより日給3万円は魅力的だった。
でも、そこは3ヶ月でクビになった。
今考えると地元の風俗で働いた私が迂闊だったが、店長が勝手に私を雑誌に載せたことで知り合いが店に電話をしてきて18歳未満だということがバレてしまったから。
もし警察の手入れが入って18歳未満が働いている事が発覚すれば店には多額の罰金と営業停止が待っている。
19だと嘘をついて店にリスクを負わせたという理由で最後の週の給料はもらえなかった。
それから逃げるようにこの街に来て毎日ブラブラしている時、一人で入ったバーでオーナーのジンさんに出会った。
仕事を探していると言う私にジンさんはうちで働かないかと言ってくれた。
出会ってたった5分。名前を名乗ることさえなく、私は仕事を手に入れた。
初めて店に行った時、ジンさんはまだ店に来ていなくて、背の高い男が一人でグラスを拭いていた。
「ジンさんから聞いてる。とりあえず何か飲むか?」
頷いた私に彼は少し考えてから少しドロっとした赤いカクテルを作り、悪戯っぽく唇を曲げながら言った。
「俺はソル。これからよろしくな、メアリー。」
こうしてこの街で私はメアリーになった。フルネームはブラッディ・メアリー。
“血まみれメアリー”。なんて私にぴったりなんだろう。
新しい名前を手に入れたその瞬間、私はこの街での生活がこの上なく心地良いものになる事を確信した。
あれから一年。
初めは唯カウンターの中でカクテルを作るだけだった私がDJに興味を持つようになって少し変わった。
生まれて初めて目標というものを持ち、人から学び努力することを覚え、レコードを買うために節約する事を覚えた。
その私の変化は”成長”と言えるものなのかも知れない。
それでも「誰も本当の私を知らない」という寂しさを伴う心地良い環境は未だ変わることがない。
この一年、何人かの友達ができて、何人かの男と寝たが、私の本名を知る者は一人もいない。
友達が増える度、男に抱かれる度、寂しさが増してきた気がする。
彼らの友達は、彼らが抱くのは、メアリーという名前でありメアリーを演じている”誰か”でしかない。
柏木瞳。
いつか私にもこの名前を伝えることのできる相手に出会えるのだろうか。